有罪モラトリアム

明日のことはわかりません

頭がいいとは何か、そして賢くありたい自分。

初孫で一人っ子だったので曽祖母祖父母などからは小さいころからよく「お利口ね」とベタ褒めされてきました


お母さんもわたしのことを褒めるとき「お利口さん」って言う。お父さんは「お前賢いな!」って若干謎の上から目線で言う。
そして言われるたびに「うん。」と応えていた高慢?なわたし。

 


「賢い」とは何だろう?
「頭がいい」「利口」「賢い」
それぞれの定義を調べてもしっくりこない。というか、言葉は発する人によって定義がいちいち異なるのでそう言った人に質問してみないと分からない。


「頭がいい人ってどんな人ですか?」


大学の学部生のときはゼミの先生に盲信しているようなところがあったので、先生の指す「アイツは頭がいい / 賢い」は(わたしのように盲信していない)ゼミ生たちのなかでも意味を持つ一言だったように思う。


だから先生に「先生が "頭いいなコイツ" って思うのってどんな人でどんな時ですか?」と聞いたことがある。ちょっと考えて先生は「自分の能力を引き出している人」
と答えた気がする。( うろ覚えなのは先生は割と適当に頭いい、の一言を使うと知ったからどうでもよくなったのと、人に何かを訊くとき人は自分のなかで既に答えを持っているはずで、その答えに沿わない答えを出されると記憶が薄れるから だと思う)
「僕にとって "君、頭がいいね" って言うのは、走るのが速い人に "君、足が速いね" っていうのと同じことなんだよ」
というようなことを言われた。  
なんとなく、わかる気がする?


あとは、
生意気な20歳〜22歳という時期は自分より年上の人間を判別したがるもので、「うちの先生は頭がいい」という話をよくしていた。
ゼミ生それぞれに「頭がいい」の定義があってそれが微妙にズレたまま、でもなんとなく合致してそういう結論になったはずだった。
定義が合致していたものの一部は
「難しいことを簡単に説明する」
「例え話が分かりやすい」
だった。頭がいい=上記の2点が当てはまる
のは納得できる。
ある物事について他人よりよく理解していないとそういうことはできないので、「知識量と理解力に長けている」ことが「頭がいい」の定義のひとつなのかもしれない。


深夜だから当てのない話を続けているけれど、もう二つ
・わたしが思う"頭がいい"人
・なぜ賢く、頭がよく、在りたいのか?
を書きたいなと思う。

 


最初は「頭がいい=勉強ができる」だった。
小学生から高校生はじめにかけてはそんなものでは?
わたしは偶然にも要領が良かったおかげで小学校中学校の勉強の成績は優秀だったので自分は頭がいい人間だと思っていた。一番は取れないけど十番以内かそのちょっと下にいるくらいの頭の良さ。しかし田舎の地元を出て生徒数が約三倍?になった高校に入るとそうもいかない。自称進学校(笑)の進学コースに入ると成績の順位は良くて真ん中、頑張らないと後ろから数える方が早かった。


余談だけど、入学後初のテスト結果が発表されたとき後ろの席の子が「俺、クラス最下位」と告白したのに感心した。勇気があると思った。わたしは半端な数字がとても恥ずかしくて誰にも見せたくなかったのでその潔さを見習いたかった。


びっくりした。世界が広くなったことに感動しつつもこんなにも頭のいい人間がたくさんいるのかと焦って高校一年は勉強が大変だった。数学のテストの再試で何度も居残りさせられた。
一年生がいちばん大変で、でも楽しくてそれ以降は勉強への熱が冷めていた。


「頭がいい」にこだわるようになったのは間違いなく大学に入ってからだった。入学時の英語のテスト結果でクラスが振り分けられたのち、自己紹介を経てクラス内の三分の一が有名進学校から入学してきたことを知った。
でも、全国の有名進学高校の名前すら知らなかったので「〇〇高出身です」と言った子に周りが「え!?じゃあなんでこの大学に!?」とざわめいてるのを聞いてなるほど凄い学校なんだと知ることが多かった。
同じ四国でも有名大学に進学率の高い学校があることを知ったのもショックだった。


大学に入ると「頭がいい≠勉強ができる」だと気づく。イコールで結べるのかもしれないけれど、"勉強ができる"ことは「頭がいい人間」である必須条件ではなくてもよいことが分かった。でも大体頭がいいと思った人間は軒並み皆んな勉強もできた。


曖昧な定義のまま、頭がいい(と言えるであろう)人たちを見てきた。個人的に最も「頭がいい、賢い」と思った人は別の大学院に進学した同い年の子だった。
そこでわたしの中の「頭がいい」の定義が完成したように思う。
わたしの中では「賢い」と「頭がいい」はほぼ同義で、ニュアンスで使い分けていることが多い。


「頭がいい人」というのは、
「自分を惨めな目に遭わせない人」
のことだと思った。


この結論に辿り着くまでに紆余曲折あった。
大学院に進学した同期を見ていて「"上手くやっている"なあ」と感じる場面がいくつかあった。
もう半年以上連絡を取っていないので詳細なエピソードを思い出すことができないが、とにかく自分に降りかかりそうな面倒ごとや自分への攻撃を回避、もしくは上手く受け身を取ることができる子だった。
ざっくり言うと「イジられる側に回らない」「イジられてもすぐに流す」。


(この例えが伝わっていない時点でわたしが頭のいい人間ではないことが分かる)


「イジる」は恐らく辞書に載らないある種のスラングのような言葉だが、その意味については人々の間でなんとなく共通していると思う。
この言葉と、これが使われる場面が嫌い、という話で一記事分書けそうなので詳しくは触れない。


イジるというのは、言葉をマイルドにしているだけで攻撃を受けているのと同じだと思う。自虐を強要されている、相手を冗談めいて蔑む、のようなイメージがある。
ので、わたしはその行為がとても嫌いなのだ。
しかし先輩後輩、指導教官と学生、友人グループ、などなど現代のコミュニケーションにおいて自然にイジる行為が溶け込んでいる。
そういう「自分を卑下しなければいけない」状況をうまく回避できる能力があるからこそ「頭がいい」と思った。

 


最後に、
なぜ「わたしが頭がよく(賢く)ありたいか?」


これは上述の同期の一人の話にも関連する。
頭が良ければ、自分を卑下する状況から抜け出せるから。


また、幼少期からのコンプレックスも由来する。「女の子は愛嬌!可愛らしさ!」の悪しき風習(?)の渦中や学生ならではのカーストのなかで、自分にあるわずかな価値が「頭がいい(当時は勉強ができるの意)」だったのでそれに執着しているのだと思う。


容姿に恵まれたわけではないし、むしろ容姿の悪口をしばしば言われることの方が多かったし、運動もコミュニケーションもあまり得意ではなかった。それらを気にせずにいられればよかったものの、そうはいかない。
ゆえに「頭の良さ」に重きを置いているのだ。
要するに「女の子のくせに可愛くないし愛想もないなら勉強くらい出来なくちゃ!」という今となっては偏見の塊が生み出した呪いだった。

 


今でも呪いに苦しめられている。
なぜならわたしは決して「頭がいい」と言えないからだ。
勉強もできなくなったし、自分を惨めにする状況から抜け出せない。
それでも時々「頭いいなあ、賢いなあ」と他人から言われると、とても嬉しい。
ああ、自分にはまだ価値があったか、と思えるから。